2020


ーーーー4/7−−−− 東京オリンピックの聖火リレー


 
先の東京オリンピック(1964年)のとき、一つだけ試合を見に行った。親がたまたま誰かから貰った券で、駒沢競技場でのサッカーだった。外国どうしの対戦であったが、国名は覚えていない。サッカーという競技になじみが無く、ルールも知らないままの観戦だった。しかし、一つだけはっきりと覚えているシーンがある。それはある選手が放ったオーバーヘッド・シュートだった。ゴールは外れたが、そのトリッキーなプレーに「凄いものだ」と驚いたのであった。

 観戦はそれ一つだったが、もう一つ印象的な出来事があった。それは聖火リレーである。

 通っていた小学校は、東京都中野区にあった。学校から南へ10分ほど歩いたところに、青梅街道が通っている。そこが聖火リレーのコースとなった。当日は、教師に引率された生徒らがぞろぞろ歩いて青梅街道に向かった。沿道は、たくさんの市民でごった返していた。聖火が現れるまで、しばらく待たされた。

 そのうちに、まわりでざわめきが起こり、道路の遠くのほうに煙が見えた。次第にそれが近づいてくる。そしてついに、走者がはっきり見えるようになった。走ってくる側の車線は交通が遮断されており、何も無い路面をひたひたと聖火が迫ってきた。

 走者は集団で、先頭の一人が聖火のトーチを掲げ、他に数名の伴走者がいた。 走者は明らかに専門の陸上競技選手と見受けられた。ランニングとショートパンツから出ている腕や脚は、鍛えられた筋肉そのものだった。背筋をピッと伸ばし、しっかりと前を見つめ、腕の振りや腿の上げも大きく、かなりのスピードで走ってきた。その姿全体から、ストイックな使命感が感じられ、神々しいほどだった。状況の全てが本格的で、格好良く、感動的だった。子供心に「これはどえらいものを見てしまった」と感じたのを覚えている。




ーーー4/14−−− 指紋認証


 最近のスマホには、生体認証という機能がある。指紋や顔を登録すれば、パスワードなどを使わずに、ワンタッチで始動できる。

 そういうことを知ったので、面白半分に指紋を登録してみた。登録する際には、使う指の指紋を、スマホの裏側の指定された小窓のような部分に当てる。それを繰り返し何度もやらされたり、指先を転がすように指示されたりして、けっこう時間がかかった。指紋のような複雑で細かい形体を認識するのは、やはり機械にとって簡単なことでは無いようである。

 登録を終えて使い始めたら、便利だった。まるで、その指で電源ボタンを押すかのように、瞬時に認証して始動する。その簡便さは、評価できる。片手で操作出来るというのも良い。

 手袋をしていたり、指に絆創膏を張っていたら使えない、などという指摘も聞かれるが、そんなのは半ばジョークだと思っていた。手袋をはめたままスマホを使うというのはまず無いし、指に怪我をするケースも、普通の生活なら稀な事である。

 ところがあるとき、指紋認証が使えなくなった。指をスマホの例の部分に押し当てても、反応しないのである。何回やってもダメなので、これはいかなることかと考えた。スマホのこの機能は誤動作し易いのか、つまり当てにならないのか?、などと疑ったりもした。

 しばらくして原因が分かった。その頃、数日に渡って、工房の作業で集中的にペーパーがけをやっていたのである。ペーパーがけとは、サンドペーパーで部材の表面を滑らかにする作業。サンダーという電動工具を使うこともあるが、細かいところや曲面は手作業となる。手で行う場合、対象が平面だったら小さな木片にペーパーを被せて使う。曲面の場合は小さく切ったペーパーを三つ折りにし、指で曲面に押し付けてこする。いずれにしろ、ペーパーのザラザラした面が指先に当たる。その作業を長時間続けると、指先がツルツルになってくる。それで指紋が薄くなり、スマホで判別できなくなったのだ。

 ペーパーがけで指先がツルツルになるという事は、ずうっと前から気付いていた。しかしそれが原因で、自分自身の特定に支障を来たすとまでは考えていなかった。なんだか不思議な気持ちになった。




ーーー4/21−−− 鉛筆を使う


 
現代における筆記具の主流と言えば、ボールペンとシャープペンシルだろう。日常的に鉛筆を使っているのは、小学生くらいだと思う。ちなみに小学校は、鉛筆以外の筆記具は禁止されている所が多いようである。

 私は仕事柄、鉛筆をよく使う。工房での作業は、100パーセント鉛筆である。濃さはB。何故鉛筆かと言えば、木材に文字を書いたり、マーキングをするのに、シャープペンシルでは荒っぽい使い方ができず、具合が悪いからである。紙に図面やスケッチを描く際も鉛筆を使う。事務室と違って、工房内は暗かったり、埃があったりして、視認性が低い。だから、鉛筆ではっきり、太く、黒々と書くことが必要なのである。それに、工房内では、紛失したり、破損したりする可能性が高い。単価が低い鉛筆なら気兼ねが無い。

 そんな具合に鉛筆を多用しているので、日常生活のほかの部分でも鉛筆を使うことが多い。事務机で文書の原稿を書いたり、メモ書きをするのも鉛筆である。ボールペンは、宛名書きとか、外部に出す書類に住所、氏名を書くときに使うだけ。シャープペンシルは、全く使わない。会社勤めをしていたときは、支給されたシャープペンシルが主たる筆記具だったので、慣れていたのだが、今は使わない。

 外出して人に会ったり、打ち合わせに参加する際にも、鉛筆を離さない。鞄の中には必ず鉛筆と消しゴムが入っている。筆箱などは面倒だから使わない。そのまま鞄に入れてある。ただ、そのままだと芯が折れたり、周りを汚す恐れがあるので、鉛筆サックをはめている。鉛筆サックなどと言うと、前世紀の遺物のようなイメージだが、なかなか便利である。

 鉛筆は、単純な構造なので、様々な条件下で確実に使える、信頼性の高い筆記具である。欠点と言えば、削らなければならない事ぐらいだが、私の使い方は、大量の文字を続けて書くわけではないので、その不自由は感じない。改めて、鉛筆は優れた道具だと認識している、昨今の私である。




ーーー4/28−−− 人海戦術の共同作業


 
この10年ほどの間に、住んでいる地域の活動に関わることが多くなった。自治会の活動の他に、趣味のサークル活動のようなものにも参加している。ソバ会とか、マツタケ山整備とか。いずれも数名から十数名の団体行動である。そういうことを通じてさいきん感じるのは、お互いに協力をして活動をする意義である。

 ある作業をするのに、一人でやるのと、5人でやるのでは、出来高が5倍違う。当たり前の事であるが、そういう事を実感する機会は、これまでの人生でほとんど無かった。能率優先の現代社会では、人間がやってきた仕事を機械に代行させる。昔は村人総出でやっていた田植えを、今ではトラクター一台で片付けるやってしまう。パソコンを使えば、異なる職種の人が手分けしてやっていた仕事を、一人で片付けることも可能だ。和文タイプなどという職種があったことを、今の若者は知りもしないだろう。少しの人数で、多くの成果を挙げるというのが、現代社会を支配する原理である。

 ところが、現在私が加わっているマツタケ山整備作業などというのは、人手による作業である。チェーンソーなどの道具も使うが、チェーンソーが勝手に木を切ってくれるわけではない。基本は、人間の体を駆使した手作業なのである。各自の役割に、これと言った専門性は無く、皆で同じような事をやる。だから、人数が多ければ、単純にその分だけ成果が上がる。言わば人海戦術である。その効果は、頭で想像するのと、実際に体験するのでは、大きな差がある。

 とにかく人数が多ければ助かる。その共通した認識のもとに集まり、いそいそと山に入る。各自の能力の差や優劣は関係ない。それぞれの立場は公平であり、お互いを比べて不平や不満を言ったりはしない。そして作業の辛さも楽しさも、公平に味わうのである。

 このような人海戦術を繰り返していると、お互いの大切さが分かってくる。おのずと共感や信頼が深まっていき、豊かな人間関係になっていく。能率、効率社会では、人に優劣の差を付けて分断する。競争をあおって、対立させる。それに対して、旧態依然で非能率、しかも没個性に見える人海戦術の共同作業であるが、そこには人間社会に幸せをもたらす本質的な原理が潜んでいるように思う。